佐藤文隆先生がご逝去されました

追悼 市民の会顧問 佐藤文隆先生
去る9月14日未明、私たち「湯川秀樹旧宅の保存と活用を願う市民の会」(以下、市民の会)の創設以来、顧問を務めてきていただいた佐藤文隆先生が急逝されました。享年87歳でした。
佐藤先生は、「市民の会」にとって、会の創立から始まり、旧湯川邸の京都大学移管に関わる交渉、そして旧湯川邸所蔵資料の調査と分類、京都大学移管後の資料の詳細調査という重要なプロセスに現役役員以上に関わっていただいた、かけがえのない存在でした。それだけに留まらず、市民の会主催の講演会講師も、いつもの笑顔で喜んで引き受けていただきました。私たちにとっては、会活動の精神的支柱であり、生前の湯川秀樹先生について気軽に教えていただけた師匠的存在でもありました。佐藤先生が亡くなられたあと、その喪失感が日ごとに膨らんできています。
思い返すと、佐藤先生との何気ない会話の端々に、私たちへの遺言的なメッセージが入っていました。以下、佐藤先生との思い出を辿りながら、追悼の言葉としたいと思います。
佐藤文隆先生は、すでに報じられているように、湯川秀樹先生に憧れ、山形県南部の村から京都大学理学部に進学し、宇宙物理学を専門とされます。そこで、ブラックホールの研究を行い、ノーベル賞候補のひとりとなります。また、湯川秀樹先生のノーベル賞を機に設立された京都大学基礎物理学研究所の第三代所長も務められました。
2019年秋頃に、湯川秀樹先生の旧宅の維持が困難となり、ご遺族から京都大学に移管のご希望がでてきました。その動きの出発点となったのが、ご遺族と親しくしていた本会世話人の江上由香里さんと和田紘子さんたちでした。いろいろな人を介して、湯川秀樹先生の教えを直接受けたことのある坂東昌子愛知大学名誉教授と相談することで、話を聴いた佐藤文隆先生が動かれました。坂東先生と佐藤先生は、学生時代以来の同級生で、NPO法人「あいんしゅたいん」を設立し、こどもたちに科学や物理学の面白さを伝える仕事を続けてこられてきました。
佐藤先生は、早速、尾池和夫元京大総長、山極壽一前京大総長、永田和宏京大名誉教授、九後太一京大名誉教授らとともに、湊長博京大総長に、京都大学が同旧宅を取得して湯川秀樹さんの業績や暮らしぶりを後世に伝えるようにすべきだと提案されました。
この京都大学理学部を中心とする研究者の会とは別に、私たちは「市民の会」をつくり、市民の視点から湯川邸の保存と利用について京都大学や京都市に要望活動をすることにしました。
結果、旧湯川邸の京都大学移管が実現し、2021年9月15日に京都大学が安藤忠雄建築研究所と長谷工コーポレーションとともに記者会見を開き、新湯川邸整備計画を発表します。これに対応して、「市民の会」も9月16日に記者会見し、新湯川邸の市民への開放、湯川邸遺品の保存と公開を中心に提案しました。この間、佐藤先生と坂東先生から多くの知恵と力をいただき、研究者の会の皆さん全員に「市民の会」の顧問になっていただきました。加えて、記者会見の準備段階から当日の記者との質疑応答に至るまで、佐藤先生に力を貸していただきました。
実は、湯川邸の京大移管が決まってから9月の記者会見までの間、湯川邸に遺されていた家具や衣服、書籍、資料類の分別作業を、京都大学とご遺族からの依頼で「市民の会」の江上さんが中心となって行っていました。その地道な作業では、湯川秀樹先生を知る専門家の鑑定が必要不可欠でした。
湯川邸には、幼少期の小川秀樹時代のノートやはがき、手紙類から始まり、物理学だけではなく、和歌や絵画、核兵器廃絶の科学者運動に関わる資料類が大量に残されていました。そのなかには、尋常小学校からはじまり京都帝国大学の卒業証書や成績表、さらに大学に就職した際の辞令なども残されていました。佐藤先生は、その資料を分別するために、頻繁に下鴨の湯川邸に通って来られました。その飄々とした姿は忘れられません。もちろん全くの手弁当でしたが、実に楽しそうに作業されていたことが思い出されます。
私も、何度か一緒に作業する機会があり、「湯川さんの学生時代の成績は、あまりぱっとしないね」とか、「湯川さんの『旅人』のなかにも書いてあるんだけど、数学なんか先生が教えてくれる解法ではなくて、自分で勝手に解法を考えて解いているなあ。これじゃ、いい点数がとれないわけだ」と笑いながらいって、当時の旧制高校や帝国大学の講義ノート類を、興味深く見ておられました。そして、西田幾多郎の『哲学概論』のノートを見つけて、嬉々として、西田研究の第一人者である藤田正勝先生に、その鑑定をお願いするといったように、実に楽しみながら仕事をされていた姿が忘れられません。
佐藤先生は、日頃から「秀樹は僕の全てですから」と私たちに語っておられました。それは、先生が『現代思想』や京都新聞などで連載されていた寄稿文の軸が、湯川秀樹先生の言動であることからも、うすうす察していたことです。佐藤先生が、にこにこしながら、少年のように目を輝かせて、そのように言われると、こちらの方が照れてしまうほどでした。
私がだんだん湯川秀樹先生絡みの小文や論文を書くようになると、事実確認や当時の物理学界や湯川先生のご様子が気になり、佐藤先生に恐る恐る原稿をみてもらえないかとお願いするようになりました。すると、お忙しい中、すぐに読んでいただき、メールや電話、そして直接の会話の中で、親切かつ適確なコメントを返していただきました。その意味では、私の湯川研究の師匠でもありました。いま書いている本の原稿についても、いつでも見てもらえると思い込んでしまっていたのですが、そのような機会が永遠に訪れないこととなり、残念でなりません。
佐藤先生には、「市民の会」主催の講演会にもご登壇いただきました。中でも思い出深いのは、2024年3月23日に、ビキニ事件70年を機に開催した講演会で、佐藤先生に「ビキニ事件と湯川秀樹」と題する講演をお願いしたことです。当日は、核兵器の仕組みから始まり、ヒロシマ・ナガサキ、そしてビキニ事件に至る核兵器競争の歴史、さらにビキニ事件をきっかけに湯川秀樹先生が国際的核廃絶運動に取り組んで行く過程が、沢山のパワーポイント資料を使って、力強く、明快に語っていただき、多くの聴衆が聞き入っていました。
幸い、この時の講演を記録した動画は、佐藤先生のご了解の下に、DVDとして編集し、今も販売しています。ご購入希望の皆さんは、ぜひ、市民の会のメールアドレスまでご一報ください。
さらに、佐藤先生には、この「市民の会」のホームページにも、沢山の寄稿をしていただきました。なかでも、引っ越しを重ねた湯川秀樹先生の住んだ場所を訪ねた佐藤先生の寄稿文は、自ら「お住まいシリーズ」として提案された企画です。しかし、この湯川先生の足跡をたどる旅も途中で中断したままとなってしまいました。
最後に、佐藤文隆先生には、私たち「市民の会」の総会にも、毎年、ご自宅からリモートで参加し助言をしていただきました。今年6月21日に開催した総会には、ちょうど山形県の故郷に帰る日程とぶつかってしまい欠席されましたが、後刻、次のようなメールをいただきました。
<岡田さん
21日は山形県の故郷に帰っていて、顔出しできませんでした。
市民の「見学会」ですか。会の継続、大事になっていきますね。
佐藤文隆>
米寿を迎えた佐藤文隆先生は、湯川秀樹先生と同様、年下の私たちにも「さん」呼びを貫いておられました。私の方からは、とてもそのようなことができず、いつも「佐藤先生」と話したり書いたりしていたのですが。短いメールですが、この文章に先生の人柄と明日への展望を示す理性が凝縮されているように思います。この一文は、佐藤先生の湯川邸への想いと「市民の会」に向けた激励と期待が書かれた遺言だと受け止めています。先生が書かれた新湯川邸の機能とレイアウト案などを参考にしながら、引き続き、「市民の会」としての活動を継続させていきたいと改めて決意しているところです。
佐藤文隆先生、長期にわたる持病と闘いながらの研究、啓蒙活動をつづけながら、私たち「市民の会」へのご指導、ご協力をいただき、本当にありがとうございました。
どうか、ゆっくりお休みください。
合掌
2025年9月23日
湯川秀樹旧宅の保存と活用を願う市民の会 代表 岡田知弘
